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会員に指導する唱題の心構え
1、大宇宙のリズムに自分の小宇宙を合致させるのが勤行唱題
2、師匠である先生と呼吸を合わせることが大事で
池田先生にお応えするんだ!という一念で唱題しなければならない
3、いくら送信機が立派でも受信機が壊れていてはだめだ
先生は私たちのためにお題目を送ってくれています
この信心指導は正しいのでしょうか?
まず1の大宇宙のリズム説について
日淳上人のご指南
「元来かような考へは南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるから
でありまして宇宙に遍満する妙法の理が題目であるとするからであります。
此れは大変な誤りで南無妙法蓮華経は仏身であります。」
日顕上人のご指南
「『宇宙に遍満する法のリズムに我々が合致する』
などと言っておるようですが、あれは大変な間違いです。
むしろ、大聖人様の仏法に対する冒涜(ぼうとく)であります。
法といっても、それは大聖人様の久遠元初の
御当体としての自受用報身の一念に具わる法なのです」
創価の指導は外道天魔の説、異流儀って感じですね。情けない
どうしてこうなっちゃったんですか
2の池田先生と呼吸を合わせるお題目説について
日達上人のご指南
「最近、ある人の顔を浮かべて唱題をしている人たちが
いるようなことを聞きました。これはとんでもない間違いです」
御戒壇様(日蓮大聖人)!という気持ちでお題目を唱えて
功徳の果報である六根清浄を目指して修行していけばいい話なのに
師匠にお応えするとか、何か漠然としたものを間にいれるから
池田先生の顔を思い浮かべる事態になるのです
3の送信機・受信機にいたっては
池田本仏論スレスレのオカルトじみた指導なので
さすがにこの説は、創価内でも次第にピークアウトしており
私の親は、これが書かれた信心指導の張り紙を撤去しています
創価の中では、池田先生を師匠だから、師弟不二だからといいますが
日淳上人のころから信心で異流儀を唱え
間違った指導をする人がどうして師匠になるのかわかりません
唱題という基本の時点で、自ら大宇宙がどうとか言い出し
御法主上人のお言葉に背く人は用いるべき人師ではないので
ご本尊様と私たちの間に挟んではいけないと思いますが
どうなのでしょうか
先輩学会員の方、どなたか教えてください
私が間違ってるんですか?
1. がんばってらっしゃるのですね(^^)
あ、えと、ゴチえもんさんのところで見かけておじゃましました。
役職持ちでは時間的になかなか丁寧な対応をしずらいのではと感じたから。
それで、これからの「方向性」についての「苦悩」がある、そう感じたのでコメントしてみようかと。
確かにちょっと『象徴的すぎ』ていることでピンと来にくいが普通ですから。僕もそう感じていたので自分なりに現証で確認しながら学んできたんですよ。
ゴチえもんさんもどうやら『信仰対象』が気になったようですね。しばらく前に自分で書いたものを引用しておきます。ちなみに僕は個人でやっている「内徳信仰」なので、後でゴチえもんさんに確認をされてください(^^)
十界論をよく理解していれば『御本尊様』がなんであるか理解できる。十界論でいうところの『仏界』の生命に感応させ『蘇る』ようにする目的で『御本尊様』『題目』が存在する。要するに『御本尊様』の本体は十界論でいう『仏界』であり、本体に感応・共鳴させる目的で曼陀羅と題目がある。
曼陀羅は視覚ルートからの『縁』で、題目は声によるルートでもって、それぞれのルートでもって勤行・唱題の『儀式』を日々行うことで『性根』を幸福に導くよう心構えをする。その際にキーとなるのはただ単純に『信じること』なのだ。イメージ的には御本尊様に『依存』する感じになる。御祈念にしても『信じて依存』という感じになる。また、単刀直入な儀式だけではなく『理解の底上げ』の為に教学を学ぶ。底上げをすることで様々な『意味』がわかってくるようになり、それで『三障四魔』を見破る事ができるようになる事で『退転』しにくくなる。