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こんな学会員でいいのでしょうか

創価の信心指導

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コメント

1. がんばってらっしゃるのですね(^^)

たぶん大聖人様は真っ先にタイトルにしたようにおっしゃるのではないかと感じてます(^^)

あ、えと、ゴチえもんさんのところで見かけておじゃましました。
役職持ちでは時間的になかなか丁寧な対応をしずらいのではと感じたから。

それで、これからの「方向性」についての「苦悩」がある、そう感じたのでコメントしてみようかと。

確かにちょっと『象徴的すぎ』ていることでピンと来にくいが普通ですから。僕もそう感じていたので自分なりに現証で確認しながら学んできたんですよ。

ゴチえもんさんもどうやら『信仰対象』が気になったようですね。しばらく前に自分で書いたものを引用しておきます。ちなみに僕は個人でやっている「内徳信仰」なので、後でゴチえもんさんに確認をされてください(^^)


十界論をよく理解していれば『御本尊様』がなんであるか理解できる。十界論でいうところの『仏界』の生命に感応させ『蘇る』ようにする目的で『御本尊様』『題目』が存在する。要するに『御本尊様』の本体は十界論でいう『仏界』であり、本体に感応・共鳴させる目的で曼陀羅と題目がある。

曼陀羅は視覚ルートからの『縁』で、題目は声によるルートでもって、それぞれのルートでもって勤行・唱題の『儀式』を日々行うことで『性根』を幸福に導くよう心構えをする。その際にキーとなるのはただ単純に『信じること』なのだ。イメージ的には御本尊様に『依存』する感じになる。御祈念にしても『信じて依存』という感じになる。また、単刀直入な儀式だけではなく『理解の底上げ』の為に教学を学ぶ。底上げをすることで様々な『意味』がわかってくるようになり、それで『三障四魔』を見破る事ができるようになる事で『退転』しにくくなる。

2. コメントありがとうございます

>太ちゃんさま
暖かいコメントありがとうございます。
サイトのほうも興味深く拝見させていただきました。

まずはご挨拶になりますが
私はハンドルネームすら決めずに、衝動的にブログ立ち上げしてしまったので
「ブログ管理人」という無機質な名前でのお返事となります、
心温まる応援のあなた様のへお返事が、ブログ管理人名義でごめんなさい

創価関連のブログに書き込みしたのも
たまたま「池田先生 偉い」で検索して引っかかった
ゴチえもんさんの所が初めてで議論などしたことなど
なかった為にハンドルネームがなかったんです。

太ちゃん様的には
どの日蓮仏法でも、功徳や現証を得られるとされているみたいなので
学会のご本尊様を「信じて」拝んでいても大丈夫なのでしょうか?

先日、二メートルぐらい前で原田会長が講義してくれた機会があり
50年信心やってきた人が、どんな幸せな境涯を築いているんだろうかと
観察する意味で興味津々で凝視していましたが、
普通のおじさんという感じで特別なものは何も無かったのです

原田会長を呼べるほどの人が、お子さんが何人もうつ病・自殺未遂などおこし
私自身も精神の病に陥り、数十人折伏活動してきた私の祖母もうつ病です。

若いときから創価教育を受けてきましたが、
創価エリートの中で十代で父親も母親も亡くす人が二人いましたし
私の親友も二十歳のときに父親を亡くしてたり
十代で歯がぼろぼろだったり・・・。私もそうです。
敏感な人ほど危ういのではないかと思ってしまいます。

私自身、平成三年以降、また檀徒資格喪失した平成九年ごろ
人生の難易度が上がり、普通の人ができるようなことができなくなって
元気もなくなってしまったので、創価のご本尊は怖いと思っています。

が、これは単なる偏りの問題と主観、もしくは過去の悪業であり
創価ご本尊でも実は大丈夫だと考えていいのでしょうか
今の私には難しいです

まだこういうのは初心者ですので
太ちゃん様のブログや、他のブログを見て周り
もうすこし勉強してから、ブログ続けていこうと思います。

3. 僕は『内徳信仰』なので所属とは関係無く個人でも信仰できるものなんですよ

こんばんは♪(^^)/

>どの日蓮仏法でも、功徳や現証を得られるとされているみたいなので
>学会のご本尊様を「信じて」拝んでいても大丈夫なのでしょうか?

と、いうより、僕は曼荼羅は無い状態でやってます。まぁ組織についていた頃はみんながやってる「意味」が皆目わからず、結局は『完全に自分の失態』で曼荼羅を失い、それでさすがに自分なりに取り組みだしたんですよ。その時期には曼荼羅の意義はある程度まででわかっていたからそれができたんですけどね。そもそも大聖人様は曼荼羅を書き顕す前にすでに信者がいたんですから、それを思えば一応は可能ですから。とはいえ、曼荼羅が無いぶん日々の題目は少し多めにする必用が生じますけれどf^^;

「字を書く」というのは書いた人の「微妙なクセ」が個人差で生じるのですね。いわば『書いた人物の生命』を紙に記すようなものですよ。ですから、僕が書いた曼荼羅では無意味なわけで(笑)、『仏界の生命』を自覚する事のできた人が曼荼羅を書き顕す資格があると言えますね。

早い話が、「字の微妙なクセ」がそのまま『仏界』を顕しているようなもので、曼荼羅を見ることで『書いた人物と生命を共鳴させる』のが曼荼羅の意義なんですね。我々はただ『書いた人物の生命を信じる』という作業で、書いた人物と『同等な生命を感応・共鳴』させる事になるんですね。これが『視覚ルートによる仏界との共鳴(蘇生)』という事なんですね(^^)

僕は個人信仰なので『正しい』の『基準』は『功徳の現証』になりますよ。
「棚からぼた餅」のような『顕益』もたまにあるけれど、『性根』が良くなる事での『冥益』がやっぱり安定した功徳になるなぁと感じてるんですよ(^^)

結論で話しますけれど、『信仰対象』とは自分の心の中にある『仏界』なんですね。そのために曼荼羅や題目でもって『感応・共鳴』をさせる儀式なんですね。大聖人様はこれを『蘇生の儀なり』と端的に言ってますが。元々自分の心に欲望と煩悩にまみれながら存在してる状態より、ストレートに共鳴させるわけなんですね(^^)

大聖人様が曼荼羅を書き顕す前には、それが題目のみでやっていたわけです。さらにいえば、有名な『竜の口の法難』の時には題目のみであったわけです。ですから曼荼羅は『仏界と共鳴させる補助的役割』なんですね。題目も『共鳴させるルート』が違うだけで目的は同じなんですよ。

自分がどの十界の境涯でも、それぞれの十界にはさらに十界があるわけですから、誰にでも『仏界』がある、そういうことなんですよ(十界互具)。

というか、理屈はともかくまずは自分で『功徳』を体感するのが理解に手っ取り早いから、まずは『儀式』の時に曼荼羅や題目を『信じて依存』という感じで数日やってみてください(^^)
今のように大石寺に向かってでもいいし、曼荼羅に普通にするのでもどちらでもとりあえずは大丈夫です。ただ、曼荼羅を観ないでする場合には『自分でスッキリ』とするまでの題目が必要になります(^^)

ちなみに ・・・ こういう話が本来の『折伏』なんですね。どこかに所属を促すのは『折伏』ではなく『勧誘』といいますからf^^;

学会ではゴッチャになってるけれど。まったく(笑)。

それで、これでの『功徳』ですが。『日々の生活のリズムが整う』というのが実体験できます。多分に自分を基準にした『相対的なもの』ですから、これは実際にやってみて『体感』するのがわかりやすいです(^^)

4. ご指導ありがとうございます

曼荼羅を利用しない場合は、声(聴覚)だけのルートになるので
効果が半減する分、長い時間の唱題が必要になるのですね

ところで逆に曼荼羅だけを使用して、声を使わない(題目を唱えない)
視覚だけのルートというのも、効率悪いものの有りうるのでしょうか?

木絵二像は31相まで有っても声が無いために
仏として不完全でそのままでは用いることはできない
お題目で供養せよ
という趣旨の大聖人の教えがあったはずなので
声なしで視覚だけですと、ダメっぽいのでしょうか

それともお曼荼羅は特別で、視覚だけでもOKなのでしょうか
ちょっぴりイジワルな質問ごめんなさい

本題に戻ります
>「字を書く」というのは書いた人の「微妙なクセ」が個人差で生じるのですね。
>いわば『書いた人物の生命』を紙に記すようなものですよ。
>ですから、僕が書いた曼荼羅では無意味なわけで(笑)、
>『仏界の生命』を自覚する事のできた人が曼荼羅を書き顕す資格があると言えますね。

自分の心の中に仏界はあるものの、普通の人は自覚できないので
お曼荼羅を書き顕すことができないということなのですね

学会のは日寛上人のお形木ですが、コンピュータ処理で字を太くしたり長くしたり
カスレっぽいの作ったり、しみを削ったり、授与書きを削ったりして、
仏の生命を顕した日寛上人の微妙な癖を変えてしまっているので
これは偽本尊だということになると思うのですがいかがでしょうか

やはり、私はこれを拝めません
たとえ池田先生がコンピュータ処理して作ったとしても
私は池田先生=仏界を自覚できた曼荼羅を書き顕す資格者だとは
ちょっと迷ってしまいますが、確定でOKとはいえないですし
ましてや、たぶんコンピュータ処理したのは普通の技術者ですので
やっぱりだめですよね

創価本尊は仏の生命を顕していないから効果がないだけで
普通の紙を拝んでいるのと同じで別に悪影響はなく、
お題目のみ唱える場合と一緒で長時間唱えれば、
内得信仰と同じに結果になるので
学会のご本尊でも、実は大丈夫だったりしますか?

とりあえず、大石寺に向かって続けようと思いますが
もし学会ので悪影響無ければ、コソコソする必要が無く
他の家族や学会員と一緒に拝めるのでそうしたいと思っています

5. えと、、f^^;

こんにちは♪(^^)/

今は雲を掴むような中でがんばってらっしゃるのですね(^^)
立派なことです!(^^)/

僕がこうして話しているのは『将来の大聖人様』という感じで話してます。ただ理屈を伝えればいい、とは思ってないわけで、大聖人様の手紙は非常に温かいものばかりです。ネットはほとんど文字でのやりとりですから、『大聖人様のお使いをさせて頂く』というか、本質的には『宮仕えを法華経とおぼしめせ』がこういうやりとりの精神と感じてます(^^)

>それともお曼荼羅は特別で、視覚だけでもOKなのでしょうか
>ちょっぴりイジワルな質問ごめんなさい

結論からいうとちゃんと「現証」はあるようです。ただ、まぁ現実的ではないというか。
五体満足というか、障害を抱えておられる方は概ね「感性」が鋭い傾向にあります。障害の部分を他で補おうと本能的にそうなってしまうのでしょうけれど。さらに決定的なのは『必死な一念』です。健常者が同じ事をやっても「感性」が普段の生活で鍛えられてないから「感応」する力量というか、そういうのはどうしても弱くなってしまうでしょうね。

>学会のは日寛上人のお形木ですが、コンピュータ処理で字を太くしたり長くしたり
>カスレっぽいの作ったり、しみを削ったり、授与書きを削ったりして、
>仏の生命を顕した日寛上人の微妙な癖を変えてしまっているので
>これは偽本尊だということになると思うのですがいかがでしょうか

本物・偽物という「基準」についてですね。それは「現証」がちゃんと伴うものか、という『結果』で確認するしかないわけですが。結論からいうと『問題ない範囲』といろんな学会員の『現証』から判断しますが。曼荼羅も大切だけど、『最低限の教学』をちゃんと押さえずにいきなり『勧誘』ばかりをさせてしまっているところに『不信』を助長してしまっている原因になってると感じてますよ。

>とりあえず、大石寺に向かって続けようと思いますが
>もし学会ので悪影響無ければ、コソコソする必要が無く
>他の家族や学会員と一緒に拝めるのでそうしたいと思っています

結論からいうと、どちらでも大丈夫です(^^)
『御本尊様』の本体は自分の心の中のほうですから、いかに本体の仏界を感応・共鳴で蘇生させるか、ということですから(^^)
本体の本尊を信じきれるような自分に合った状態には多少個人差は生じますよ。
ぶっちゃけて言ってしまうと曼荼羅も題目も方便ですから。本体の本尊を強く信じる一念にするための。
方便が方便として用をなしてないなら、自分で『本体の本尊を強く信じる一念』にできるよう工夫が必要でしょうね(^^)

ちなみに、「儀式」は『心構え』のためでもあります。自分と周囲が幸せな軌道になるような『性根』にするための(^^)
その『性根』で日々を過ごせば『毎日の生活のリズムが整う』ことになって当たり前なんですよf^^;

早い人では三日程度ですぐにそれを感じる人もいたし、ちょっと鈍感で自分で気が付いてなかったりもいたけれどf^^;

6. 再度のご指導ありがとうございます

私へのコメントに貴重なご時間を割いてのご指導ありがとうございます

今の私はご指摘のとおり雲をつかんでるみたいなので
地に足をつける意味で現証を確認してから、ネット上で活動しようと思います
現証をもって確認し、太ちゃん様のご指導に応えていきたいです

7. はい(^^)

はい。

まずは『自行』ができるようになるところからです(^^)

これで順調な流れがしばらく続きますよ。
しばらくすると、やがて『山あり谷あり』のような現証が起こり始めます。

それが『三障四魔』というもので、やがてが徐々に起こってきます。
概念的には、「さらに環境が良くなる」ために、御本尊様から「宿題」を出されるようなものです。自分で望む前に起こり始めるのが特徴でしょうか。

不景気でありがちだけど、家の無い人ならば、住処を得て幸せを感じてる状態というか。
しかし、住処を得ればいいファッションもしたくなることでしょうし、たまには外食でおいしい食事もしたくなることでしょう。そのためには仕事をして収入を得る必要があるなどの『宿題』が起こるわけですね。家の無かった頃にはファッションどころか、生きるためになんとか食事をするのがやっとの生活でしょうけれども。

とりあえずは『儀式』の意味を『体感』するのが最初に必要なので、まずはそこからです(^^)

ただいまコメントを受けつけておりません。

創価の信心指導

会員に指導する唱題の心構え
1、大宇宙のリズムに自分の小宇宙を合致させるのが勤行唱題

2、師匠である先生と呼吸を合わせることが大事で
池田先生にお応えするんだ!という一念で唱題しなければならない

3、いくら送信機が立派でも受信機が壊れていてはだめだ
先生は私たちのためにお題目を送ってくれています

この信心指導は正しいのでしょうか?

まず1の大宇宙のリズム説について

日淳上人のご指南
「元来かような考へは南無妙法蓮華経は法であるとのみ考へるから
でありまして宇宙に遍満する妙法の理が題目であるとするからであります。
此れは大変な誤りで南無妙法蓮華経は仏身であります。」

日顕上人のご指南
「『宇宙に遍満する法のリズムに我々が合致する』
などと言っておるようですが、あれは大変な間違いです。
むしろ、大聖人様の仏法に対する冒涜(ぼうとく)であります。
法といっても、それは大聖人様の久遠元初の
御当体としての自受用報身の一念に具わる法なのです」

創価の指導は外道天魔の説、異流儀って感じですね。情けない
どうしてこうなっちゃったんですか

2の池田先生と呼吸を合わせるお題目説について
日達上人のご指南
「最近、ある人の顔を浮かべて唱題をしている人たちが
いるようなことを聞きました。これはとんでもない間違いです」

御戒壇様(日蓮大聖人)!という気持ちでお題目を唱えて
功徳の果報である六根清浄を目指して修行していけばいい話なのに
師匠にお応えするとか、何か漠然としたものを間にいれるから
池田先生の顔を思い浮かべる事態になるのです

3の送信機・受信機にいたっては
池田本仏論スレスレのオカルトじみた指導なので
さすがにこの説は、創価内でも次第にピークアウトしており
私の親は、これが書かれた信心指導の張り紙を撤去しています

創価の中では、池田先生を師匠だから、師弟不二だからといいますが
日淳上人のころから信心で異流儀を唱え
間違った指導をする人がどうして師匠になるのかわかりません

唱題という基本の時点で、自ら大宇宙がどうとか言い出し
御法主上人のお言葉に背く人は用いるべき人師ではないので
ご本尊様と私たちの間に挟んではいけないと思いますが
どうなのでしょうか

先輩学会員の方、どなたか教えてください
私が間違ってるんですか?

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コメント

1. がんばってらっしゃるのですね(^^)

たぶん大聖人様は真っ先にタイトルにしたようにおっしゃるのではないかと感じてます(^^)

あ、えと、ゴチえもんさんのところで見かけておじゃましました。
役職持ちでは時間的になかなか丁寧な対応をしずらいのではと感じたから。

それで、これからの「方向性」についての「苦悩」がある、そう感じたのでコメントしてみようかと。

確かにちょっと『象徴的すぎ』ていることでピンと来にくいが普通ですから。僕もそう感じていたので自分なりに現証で確認しながら学んできたんですよ。

ゴチえもんさんもどうやら『信仰対象』が気になったようですね。しばらく前に自分で書いたものを引用しておきます。ちなみに僕は個人でやっている「内徳信仰」なので、後でゴチえもんさんに確認をされてください(^^)


十界論をよく理解していれば『御本尊様』がなんであるか理解できる。十界論でいうところの『仏界』の生命に感応させ『蘇る』ようにする目的で『御本尊様』『題目』が存在する。要するに『御本尊様』の本体は十界論でいう『仏界』であり、本体に感応・共鳴させる目的で曼陀羅と題目がある。

曼陀羅は視覚ルートからの『縁』で、題目は声によるルートでもって、それぞれのルートでもって勤行・唱題の『儀式』を日々行うことで『性根』を幸福に導くよう心構えをする。その際にキーとなるのはただ単純に『信じること』なのだ。イメージ的には御本尊様に『依存』する感じになる。御祈念にしても『信じて依存』という感じになる。また、単刀直入な儀式だけではなく『理解の底上げ』の為に教学を学ぶ。底上げをすることで様々な『意味』がわかってくるようになり、それで『三障四魔』を見破る事ができるようになる事で『退転』しにくくなる。

2. コメントありがとうございます

>太ちゃんさま
暖かいコメントありがとうございます。
サイトのほうも興味深く拝見させていただきました。

まずはご挨拶になりますが
私はハンドルネームすら決めずに、衝動的にブログ立ち上げしてしまったので
「ブログ管理人」という無機質な名前でのお返事となります、
心温まる応援のあなた様のへお返事が、ブログ管理人名義でごめんなさい

創価関連のブログに書き込みしたのも
たまたま「池田先生 偉い」で検索して引っかかった
ゴチえもんさんの所が初めてで議論などしたことなど
なかった為にハンドルネームがなかったんです。

太ちゃん様的には
どの日蓮仏法でも、功徳や現証を得られるとされているみたいなので
学会のご本尊様を「信じて」拝んでいても大丈夫なのでしょうか?

先日、二メートルぐらい前で原田会長が講義してくれた機会があり
50年信心やってきた人が、どんな幸せな境涯を築いているんだろうかと
観察する意味で興味津々で凝視していましたが、
普通のおじさんという感じで特別なものは何も無かったのです

原田会長を呼べるほどの人が、お子さんが何人もうつ病・自殺未遂などおこし
私自身も精神の病に陥り、数十人折伏活動してきた私の祖母もうつ病です。

若いときから創価教育を受けてきましたが、
創価エリートの中で十代で父親も母親も亡くす人が二人いましたし
私の親友も二十歳のときに父親を亡くしてたり
十代で歯がぼろぼろだったり・・・。私もそうです。
敏感な人ほど危ういのではないかと思ってしまいます。

私自身、平成三年以降、また檀徒資格喪失した平成九年ごろ
人生の難易度が上がり、普通の人ができるようなことができなくなって
元気もなくなってしまったので、創価のご本尊は怖いと思っています。

が、これは単なる偏りの問題と主観、もしくは過去の悪業であり
創価ご本尊でも実は大丈夫だと考えていいのでしょうか
今の私には難しいです

まだこういうのは初心者ですので
太ちゃん様のブログや、他のブログを見て周り
もうすこし勉強してから、ブログ続けていこうと思います。

3. 僕は『内徳信仰』なので所属とは関係無く個人でも信仰できるものなんですよ

こんばんは♪(^^)/

>どの日蓮仏法でも、功徳や現証を得られるとされているみたいなので
>学会のご本尊様を「信じて」拝んでいても大丈夫なのでしょうか?

と、いうより、僕は曼荼羅は無い状態でやってます。まぁ組織についていた頃はみんながやってる「意味」が皆目わからず、結局は『完全に自分の失態』で曼荼羅を失い、それでさすがに自分なりに取り組みだしたんですよ。その時期には曼荼羅の意義はある程度まででわかっていたからそれができたんですけどね。そもそも大聖人様は曼荼羅を書き顕す前にすでに信者がいたんですから、それを思えば一応は可能ですから。とはいえ、曼荼羅が無いぶん日々の題目は少し多めにする必用が生じますけれどf^^;

「字を書く」というのは書いた人の「微妙なクセ」が個人差で生じるのですね。いわば『書いた人物の生命』を紙に記すようなものですよ。ですから、僕が書いた曼荼羅では無意味なわけで(笑)、『仏界の生命』を自覚する事のできた人が曼荼羅を書き顕す資格があると言えますね。

早い話が、「字の微妙なクセ」がそのまま『仏界』を顕しているようなもので、曼荼羅を見ることで『書いた人物と生命を共鳴させる』のが曼荼羅の意義なんですね。我々はただ『書いた人物の生命を信じる』という作業で、書いた人物と『同等な生命を感応・共鳴』させる事になるんですね。これが『視覚ルートによる仏界との共鳴(蘇生)』という事なんですね(^^)

僕は個人信仰なので『正しい』の『基準』は『功徳の現証』になりますよ。
「棚からぼた餅」のような『顕益』もたまにあるけれど、『性根』が良くなる事での『冥益』がやっぱり安定した功徳になるなぁと感じてるんですよ(^^)

結論で話しますけれど、『信仰対象』とは自分の心の中にある『仏界』なんですね。そのために曼荼羅や題目でもって『感応・共鳴』をさせる儀式なんですね。大聖人様はこれを『蘇生の儀なり』と端的に言ってますが。元々自分の心に欲望と煩悩にまみれながら存在してる状態より、ストレートに共鳴させるわけなんですね(^^)

大聖人様が曼荼羅を書き顕す前には、それが題目のみでやっていたわけです。さらにいえば、有名な『竜の口の法難』の時には題目のみであったわけです。ですから曼荼羅は『仏界と共鳴させる補助的役割』なんですね。題目も『共鳴させるルート』が違うだけで目的は同じなんですよ。

自分がどの十界の境涯でも、それぞれの十界にはさらに十界があるわけですから、誰にでも『仏界』がある、そういうことなんですよ(十界互具)。

というか、理屈はともかくまずは自分で『功徳』を体感するのが理解に手っ取り早いから、まずは『儀式』の時に曼荼羅や題目を『信じて依存』という感じで数日やってみてください(^^)
今のように大石寺に向かってでもいいし、曼荼羅に普通にするのでもどちらでもとりあえずは大丈夫です。ただ、曼荼羅を観ないでする場合には『自分でスッキリ』とするまでの題目が必要になります(^^)

ちなみに ・・・ こういう話が本来の『折伏』なんですね。どこかに所属を促すのは『折伏』ではなく『勧誘』といいますからf^^;

学会ではゴッチャになってるけれど。まったく(笑)。

それで、これでの『功徳』ですが。『日々の生活のリズムが整う』というのが実体験できます。多分に自分を基準にした『相対的なもの』ですから、これは実際にやってみて『体感』するのがわかりやすいです(^^)

4. ご指導ありがとうございます

曼荼羅を利用しない場合は、声(聴覚)だけのルートになるので
効果が半減する分、長い時間の唱題が必要になるのですね

ところで逆に曼荼羅だけを使用して、声を使わない(題目を唱えない)
視覚だけのルートというのも、効率悪いものの有りうるのでしょうか?

木絵二像は31相まで有っても声が無いために
仏として不完全でそのままでは用いることはできない
お題目で供養せよ
という趣旨の大聖人の教えがあったはずなので
声なしで視覚だけですと、ダメっぽいのでしょうか

それともお曼荼羅は特別で、視覚だけでもOKなのでしょうか
ちょっぴりイジワルな質問ごめんなさい

本題に戻ります
>「字を書く」というのは書いた人の「微妙なクセ」が個人差で生じるのですね。
>いわば『書いた人物の生命』を紙に記すようなものですよ。
>ですから、僕が書いた曼荼羅では無意味なわけで(笑)、
>『仏界の生命』を自覚する事のできた人が曼荼羅を書き顕す資格があると言えますね。

自分の心の中に仏界はあるものの、普通の人は自覚できないので
お曼荼羅を書き顕すことができないということなのですね

学会のは日寛上人のお形木ですが、コンピュータ処理で字を太くしたり長くしたり
カスレっぽいの作ったり、しみを削ったり、授与書きを削ったりして、
仏の生命を顕した日寛上人の微妙な癖を変えてしまっているので
これは偽本尊だということになると思うのですがいかがでしょうか

やはり、私はこれを拝めません
たとえ池田先生がコンピュータ処理して作ったとしても
私は池田先生=仏界を自覚できた曼荼羅を書き顕す資格者だとは
ちょっと迷ってしまいますが、確定でOKとはいえないですし
ましてや、たぶんコンピュータ処理したのは普通の技術者ですので
やっぱりだめですよね

創価本尊は仏の生命を顕していないから効果がないだけで
普通の紙を拝んでいるのと同じで別に悪影響はなく、
お題目のみ唱える場合と一緒で長時間唱えれば、
内得信仰と同じに結果になるので
学会のご本尊でも、実は大丈夫だったりしますか?

とりあえず、大石寺に向かって続けようと思いますが
もし学会ので悪影響無ければ、コソコソする必要が無く
他の家族や学会員と一緒に拝めるのでそうしたいと思っています

5. えと、、f^^;

こんにちは♪(^^)/

今は雲を掴むような中でがんばってらっしゃるのですね(^^)
立派なことです!(^^)/

僕がこうして話しているのは『将来の大聖人様』という感じで話してます。ただ理屈を伝えればいい、とは思ってないわけで、大聖人様の手紙は非常に温かいものばかりです。ネットはほとんど文字でのやりとりですから、『大聖人様のお使いをさせて頂く』というか、本質的には『宮仕えを法華経とおぼしめせ』がこういうやりとりの精神と感じてます(^^)

>それともお曼荼羅は特別で、視覚だけでもOKなのでしょうか
>ちょっぴりイジワルな質問ごめんなさい

結論からいうとちゃんと「現証」はあるようです。ただ、まぁ現実的ではないというか。
五体満足というか、障害を抱えておられる方は概ね「感性」が鋭い傾向にあります。障害の部分を他で補おうと本能的にそうなってしまうのでしょうけれど。さらに決定的なのは『必死な一念』です。健常者が同じ事をやっても「感性」が普段の生活で鍛えられてないから「感応」する力量というか、そういうのはどうしても弱くなってしまうでしょうね。

>学会のは日寛上人のお形木ですが、コンピュータ処理で字を太くしたり長くしたり
>カスレっぽいの作ったり、しみを削ったり、授与書きを削ったりして、
>仏の生命を顕した日寛上人の微妙な癖を変えてしまっているので
>これは偽本尊だということになると思うのですがいかがでしょうか

本物・偽物という「基準」についてですね。それは「現証」がちゃんと伴うものか、という『結果』で確認するしかないわけですが。結論からいうと『問題ない範囲』といろんな学会員の『現証』から判断しますが。曼荼羅も大切だけど、『最低限の教学』をちゃんと押さえずにいきなり『勧誘』ばかりをさせてしまっているところに『不信』を助長してしまっている原因になってると感じてますよ。

>とりあえず、大石寺に向かって続けようと思いますが
>もし学会ので悪影響無ければ、コソコソする必要が無く
>他の家族や学会員と一緒に拝めるのでそうしたいと思っています

結論からいうと、どちらでも大丈夫です(^^)
『御本尊様』の本体は自分の心の中のほうですから、いかに本体の仏界を感応・共鳴で蘇生させるか、ということですから(^^)
本体の本尊を信じきれるような自分に合った状態には多少個人差は生じますよ。
ぶっちゃけて言ってしまうと曼荼羅も題目も方便ですから。本体の本尊を強く信じる一念にするための。
方便が方便として用をなしてないなら、自分で『本体の本尊を強く信じる一念』にできるよう工夫が必要でしょうね(^^)

ちなみに、「儀式」は『心構え』のためでもあります。自分と周囲が幸せな軌道になるような『性根』にするための(^^)
その『性根』で日々を過ごせば『毎日の生活のリズムが整う』ことになって当たり前なんですよf^^;

早い人では三日程度ですぐにそれを感じる人もいたし、ちょっと鈍感で自分で気が付いてなかったりもいたけれどf^^;

6. 再度のご指導ありがとうございます

私へのコメントに貴重なご時間を割いてのご指導ありがとうございます

今の私はご指摘のとおり雲をつかんでるみたいなので
地に足をつける意味で現証を確認してから、ネット上で活動しようと思います
現証をもって確認し、太ちゃん様のご指導に応えていきたいです

7. はい(^^)

はい。

まずは『自行』ができるようになるところからです(^^)

これで順調な流れがしばらく続きますよ。
しばらくすると、やがて『山あり谷あり』のような現証が起こり始めます。

それが『三障四魔』というもので、やがてが徐々に起こってきます。
概念的には、「さらに環境が良くなる」ために、御本尊様から「宿題」を出されるようなものです。自分で望む前に起こり始めるのが特徴でしょうか。

不景気でありがちだけど、家の無い人ならば、住処を得て幸せを感じてる状態というか。
しかし、住処を得ればいいファッションもしたくなることでしょうし、たまには外食でおいしい食事もしたくなることでしょう。そのためには仕事をして収入を得る必要があるなどの『宿題』が起こるわけですね。家の無かった頃にはファッションどころか、生きるためになんとか食事をするのがやっとの生活でしょうけれども。

とりあえずは『儀式』の意味を『体感』するのが最初に必要なので、まずはそこからです(^^)

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