御書は信頼性において
「真書」・「真偽未決」・「偽書」に三分されているけれども
真書なのに存在が危ないものがあるらしい
有名などころでは
「種種御振舞御書」「唱法華題目抄」
「諸宗問答抄」「如説修行抄」
真書なのに偽書なの?
真偽未決とは何が違うの?
わけわからない
と思って調べてみたら「御書システム」にたどり着きました。
全ての御書を信頼確度によりC0~C9の十段階で表示していて
C0~C5までが真書、C6が真偽未決 C7~C9は偽書
種種御振舞御書 C3
唱法華題目抄 C4
諸宗問答抄 C5
如説修行抄 C5
どうやら真書の中でも、真書確定で鉄板なものと
真偽未決スレスレの際どい真書とでランク差がある模様
参考までに重要書
三大秘法抄 C6
当体義抄 C6
御義口伝 C7
百六箇抄 C8
「三大秘法抄」は、重要書なのにC6です!
コンピュータ解析で真書という鑑定結果が出たそうですが
偽書説も根強く、C5へ格上げはできてないですね。
身延では、「三大秘法抄」を採用していないので
本門の戒壇が何か? については研究中とのこと。
さてさて、というわけで
全て揃うと、最大限に仏力法力を発揮する
日蓮・三大秘法の身延解釈ですが
本門の題目は、具体的に「南無妙法蓮華経」と明かされている。
本門の本尊は、具体的に「板曼荼羅」として顕されている。
本門の戒壇は、文献や相伝がなく、確たる教義が無いので研究中
日蓮の三大秘法の一つが不明=欠けているってどういうことでしょう?
これでは困るので、統一見解ではないものの
「法華経の行者が、本尊に向かって題目を唱える場所が本門の戒壇」
と暫定的にしているようですが、問題があるとのことです。
その説の何が問題かというと
日蓮は末法の凡夫が迷わないように分かりやすく
具体的に三大秘法とその使い方を示されてきたわけですので
題目も本尊も具体的に、はっきりした形で顕されたのに
どうして、戒壇だけは具体性のある事物でないのかという問題。
何かもっと、具体的な場所を明かされているのではないか。
でないと、三大秘法の一つに入れるのはおかしい。
だって本尊と題目が揃えば戒壇が自動的についてくるものなら
題目・本尊の二大秘法でいいじゃない
また、もし「本門の戒壇」が観念的なものだというのなら
御書でいくらでも表現できる内容であるのに
戒壇について説明した御書も見つかっていない。
戒壇にある程度言及された唯一の御書として
「三大秘法抄」はあるが、これは真偽未決の御書なので採用できない。
よって本門の戒壇については分からないので研究中なのだそうです。
こうして考えてみると、三大秘法抄は真書なのかもと思います。
日興上人への相伝も有ったんじゃないかなと思います。
あれだけ弟子がいたのに、教えの中心である三大秘法の正体を、
誰も知らない、誰にも伝わっていないとしたら
日蓮っていったい何だったんだ・・・
ってことになってしまいます。
それはあんまりです。
ちなみに、身延の釈尊本仏論を覆している真書は
・兄弟抄 C2 偽書説無し
「さればこの法華経は一切の諸仏の眼目、教主釈尊の本師なり。」
・本尊問答抄 C4 偽書説無し
「法華経の題目を以て本尊とすべし。
・・・釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊、法華経の行者の本意なり。
・・・日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とする也。
其故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目也。
釈迦大日総十方諸仏は法華経より出生し給へり。故に今能生を以て本尊とする也。」
・唱法華題目抄 C4 一部に偽書説あり
(法華経を本尊とし、釈迦やその他は助縁にする)という趣旨の記述あり
逆に、身延が釈尊本仏とする根拠の一つとして
・当体義抄 C6 真偽未決
「答う釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して
世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し給えり」
先にあった法華経を釈尊が修行したわけではなく
釈尊こそが法華経を悟ったのだ、という意味みたいですね。
そして、”法華経すら内在する釈尊が仏だ”と身延は主張します。
でもその説を採用すると、日蓮の御本尊の表現と
矛盾がおきるというか、しっくりきませんね、
曼荼羅では「南無妙法蓮華経 日蓮」が中心にあって
法華経すら内在するはずの本仏・釈尊は、
ただの法華経である”南無妙法蓮華経”の脇に追いやられていますね
この釈尊は久遠実成ではない迹仏として書いたの?
それだと、本仏はどこへいったのでしょう
法華経すら内在する釈尊は、法華経(南無妙法蓮華経)の上位にくるんでしょう?
どこに書いてあるのだろう・・・
あー それで釈迦の仏像を一緒に拝んでいるのかな
釈迦を本仏にするには、曼荼羅だけでは足りないですものね
うーん いろいろ考えたけど
やっぱり日興上人は正しかったのではと個人的には思います。
1. 僕なら ・・・
極論してしまえば『本物・偽物の判断より優先して、現証を伴うものなのか』が最重要です。
それにはまずは十界論や曼陀羅を『体感的理解』をしてないと『基準』がわからないという事態になるのですよ。様々な御書は『十界論』をいろんな側面から見たものばかりですから。